令和帝即位記念2019~寺田屋騒動~ - 2019.05.23 Thu
2019年5月4日(金)、
平安時代から鎌倉幕府、足利政権を経て現代---------。
鳥羽伏見の戦いの現場へとやってきた。

!?
・・・・・・・・・鳥羽伏見といったら、
まず最初に出てくるのがこの人なんですよ(#・∀・)
坂本龍馬遭難の地、材木小屋跡地です(^▽^;
坂本龍馬は1866年(慶応2年)、
この先にある定宿「寺田屋」で伏見奉行の役人に取り囲まれます。
機転を利かせた妻、龍の助言で脱出。
川向うにあった材木小屋へと隠れたといいます。
このことは2019年1月15日放送された、
「古舘トークヒストリー」で詳しく再現されましたw
8分ワンカットという長い長い撮影を、
極力、当時の状況に近づけて撮るという結構面白い企画☆
DVDにでもなってくれないかと思ったくらい、
見応えでありました( ´艸`)
この場所から島津の伏見屋敷までは約800m。
10分程度の距離ですが、
幕吏があちこちに見張っている中、
手傷を追ったテロリストであり、
伏見奉行所の役人(少なくとも1人)を殺害した殺人犯でもある坂本龍馬にとって、
気の遠くなるような距離であったと思われます。
坂本龍馬遭難の地を下ると、115号線沿い。
竹田街道沿いに「伏見口の戦い 激戦地跡」があります。

ここは京橋という橋がかかっていて、
伏見水運の要所でもありました。
寺田屋はその当時、数十軒あった船宿の一つだったそうです。

坂本龍馬遭難の地として有名な寺田屋ですが、
個人的には田中河内介捕縛場所としての記憶があります(^▽^;

坂本龍馬の事件と区別して、
「寺田屋騒動」。または薩摩藩志士粛清事件とも言われています。
1862年、文久2年に薩摩藩の事実上のトップであった島津久光は、
藩内にはびこる尊皇派を一網打尽にしました。
この頃の薩摩藩は「お由羅騒動」の件もあり、
あんま団結していたとは言い難いンですよね(^▽^;
NHK大河ドラマでは大抵、島津斉彬公の素晴らしさを強調されるものですが、
彼の新しいもの好き。外国かぶれはつとに有名で、
この頃、ようやく財政悪化から持ち直しつつあった薩摩藩の重鎮達は、
浪費癖のある(?)斉彬よりも久光の方が御しやすいと考えていたわけですw
もっとも--------、
この財政の黒字回復は「裏」のあるものでした(^^;
琉球との「密貿易」の結果だったンですね~w
斉彬に家督を譲らない父親。
後から出来た子は可愛いといいますよね(-.-;
斉興もまたご多分に漏れず、弟の久光に跡目を継がせたかったわけです(^▽^;
どこにでもあるお家騒動ですが、
こうした調所に代表される「旧勢力」の動向をいち早く掴んだ斉彬は、
新興勢力である若手藩士達(西郷隆盛や大久保利通など)と結託。
密貿易を事もあろうに老中、阿部正弘に密告したわけです!
調所の排除に成功したものの、肝心の父親は家督を譲らずw
斉彬の「目論見」は失敗に終わります( ;∀;)
しかしくじけない斉彬は久光暗殺を企て、再び失敗。
今度は久光の逆襲が始まります(^▽^;
久光派は徹底的に斉彬派を弾圧。遠島切腹毒殺等々、
それはそれは凄まじいものだったと言われています。
実はこの時--------、
もっとも影響を受けたのが大久保利通で、
大久保の父、利世は喜界島へ遠島。
本人も記録所書役助を免職となり、謹慎状態を追い込まれました。
そんな彼を支えたのが西郷隆盛と言われています。
阿部正弘の「とりなし」もあってかようやく1851年(嘉永4年)、
父、斉興が(やっと)隠居☆
斉彬は藩主となりますが・・・・・・・・・・、
そのわずか7年後---------、
1858年、島津斉彬は亡くなりました。
満で言えば49歳。突然の死でした。
--------実はこの時、島津斉彬は第14代将軍の推挙に際し、
紀州徳川家と対立していました。
井伊直弼による「安政の大獄」によって斉彬ら一橋派は破れ、
その事に抗議すべく五千の兵を率いて上洛する計画を練っていた。
まさにその矢先の死だったわけです。
正直、ここまでくると胡散臭いw
「誰かが」手を下したンだろってのが当然、頭に浮かびますw
まぁひどい言い方をすると、
将軍就任ですら意のままにしようとした斉彬。ってことに、なりますよね(^▽^;
で、このことは久光を通じて家茂派である紀州徳川家へと伝わる。
また紀州ですよw
結構怖いですよね、紀州(苦笑)
斉彬は(あくまでも)久光ではなく、
久光の子、忠義に家督を譲ります。
しかし斉彬が死に、斉興も没すると、
「藩主の実父」として絶大な力を持ったのがこの久光というワケ☆
久光は「新興勢力」である若手従業員達が嫌いでしたからw
長いこと確執があったと言われています(^▽^;
この「寺田屋騒動」もその一つだったのではないかと思うわけです☆
話は長くなりますがw
ここに出てくる田中某という人物、
実はかなり立派な人物で(^▽^;
明治帝を養育した人物ですw
田中河内介。
但馬国、出石の医者の息子として生まれたこの男は、
儒学者井上静軒に師事した後、上京して私塾を開催。
1840年、中山忠能に見出されて彼の部下、田中某(田中近江介綏長)の養子となり、
従六位に叙されました。
実質的家宰として中山家を取り仕切り、中山忠光、慶子兄妹を養育。
慶子が典侍として後宮に出仕。時の帝の子を身ごもると、
宮中に戻るまでの4年をなんとこの田中が養育したといいます。
祐宮(明治帝)が宮中に戻ると、田中は中山家を辞して隠居。
しかしこれには裏があって、中山家の密偵として市中に潜伏したとも言われています。
忠能は公武合体と称し、孝明帝の妹宮、親子を人質として差し出す一方、
返す刀で別の方法を模索していのでした。
幕府の詮議が厳しくなると田中河内介は大坂に出ます。
薩摩藩との関わりはこの頃からあったと言われ、
柴山愛次郎、橋口壮介らと共に義挙を企て(天誅組の変)、島津久光により捕縛されました。
名門(?)中山家の密偵。
しかし(表面上)一介の素浪人である彼に引き取り手はありません。
仕方なく(?)薩摩への護送中、
田中の一子、瑳磨介と共に後ろ手に縄を打たれ、猿轡を噛まされたまま、
一刀両断に斬って海に捨てられたと言われています。
・・・・・・・・・・まぁせっかくなので寺田屋「事件」の方も(^▽^;

坂本龍馬はこの部屋に泊まっていたと言われています。
・・・・窓から見える風景がイマイチ現代風ですw
この廊下を伝って逃げたのでしょうか?

「刀傷」は皆が触ったのかつるつるですw
この一年後--------、
坂本龍馬は盟友、中岡慎太郎と共に、
京、近江屋で命を落とします。
ダブルスタンダードと二重スパイ。
そのどちらも、坂本龍馬にとっての「真実」でした。
彼を「英雄」に仕立て上げた人物。それこそが、
「幕末」という日本の歴史を作り上げた男、ということになります。
彼の名が明治以後、初めて登場するのは1904年。
明治も37年が過ぎた昭憲皇太后の「夢」の中でした。
田中光顕の「言葉」がなければ・・・・・・・・、
あるいは司馬遼太郎氏が「竜馬がゆく」を書くことも、なかったのもしれません。
平安時代から鎌倉幕府、足利政権を経て現代---------。
鳥羽伏見の戦いの現場へとやってきた。

!?
・・・・・・・・・鳥羽伏見といったら、
まず最初に出てくるのがこの人なんですよ(#・∀・)
坂本龍馬遭難の地、材木小屋跡地です(^▽^;
坂本龍馬は1866年(慶応2年)、
この先にある定宿「寺田屋」で伏見奉行の役人に取り囲まれます。
機転を利かせた妻、龍の助言で脱出。
川向うにあった材木小屋へと隠れたといいます。
このことは2019年1月15日放送された、
「古舘トークヒストリー」で詳しく再現されましたw
8分ワンカットという長い長い撮影を、
極力、当時の状況に近づけて撮るという結構面白い企画☆
DVDにでもなってくれないかと思ったくらい、
見応えでありました( ´艸`)
この場所から島津の伏見屋敷までは約800m。
10分程度の距離ですが、
幕吏があちこちに見張っている中、
手傷を追ったテロリストであり、
伏見奉行所の役人(少なくとも1人)を殺害した殺人犯でもある坂本龍馬にとって、
気の遠くなるような距離であったと思われます。
坂本龍馬遭難の地を下ると、115号線沿い。
竹田街道沿いに「伏見口の戦い 激戦地跡」があります。

ここは京橋という橋がかかっていて、
伏見水運の要所でもありました。
寺田屋はその当時、数十軒あった船宿の一つだったそうです。

坂本龍馬遭難の地として有名な寺田屋ですが、
個人的には田中河内介捕縛場所としての記憶があります(^▽^;

坂本龍馬の事件と区別して、
「寺田屋騒動」。または薩摩藩志士粛清事件とも言われています。
1862年、文久2年に薩摩藩の事実上のトップであった島津久光は、
藩内にはびこる尊皇派を一網打尽にしました。
この頃の薩摩藩は「お由羅騒動」の件もあり、
あんま団結していたとは言い難いンですよね(^▽^;
NHK大河ドラマでは大抵、島津斉彬公の素晴らしさを強調されるものですが、
彼の新しいもの好き。外国かぶれはつとに有名で、
この頃、ようやく財政悪化から持ち直しつつあった薩摩藩の重鎮達は、
浪費癖のある(?)斉彬よりも久光の方が御しやすいと考えていたわけですw
もっとも--------、
この財政の黒字回復は「裏」のあるものでした(^^;
琉球との「密貿易」の結果だったンですね~w
斉彬に家督を譲らない父親。
後から出来た子は可愛いといいますよね(-.-;
斉興もまたご多分に漏れず、弟の久光に跡目を継がせたかったわけです(^▽^;
どこにでもあるお家騒動ですが、
こうした調所に代表される「旧勢力」の動向をいち早く掴んだ斉彬は、
新興勢力である若手藩士達(西郷隆盛や大久保利通など)と結託。
密貿易を事もあろうに老中、阿部正弘に密告したわけです!
調所の排除に成功したものの、肝心の父親は家督を譲らずw
斉彬の「目論見」は失敗に終わります( ;∀;)
しかしくじけない斉彬は久光暗殺を企て、再び失敗。
今度は久光の逆襲が始まります(^▽^;
久光派は徹底的に斉彬派を弾圧。遠島切腹毒殺等々、
それはそれは凄まじいものだったと言われています。
実はこの時--------、
もっとも影響を受けたのが大久保利通で、
大久保の父、利世は喜界島へ遠島。
本人も記録所書役助を免職となり、謹慎状態を追い込まれました。
そんな彼を支えたのが西郷隆盛と言われています。
阿部正弘の「とりなし」もあってかようやく1851年(嘉永4年)、
父、斉興が(やっと)隠居☆
斉彬は藩主となりますが・・・・・・・・・・、
そのわずか7年後---------、
1858年、島津斉彬は亡くなりました。
満で言えば49歳。突然の死でした。
--------実はこの時、島津斉彬は第14代将軍の推挙に際し、
紀州徳川家と対立していました。
井伊直弼による「安政の大獄」によって斉彬ら一橋派は破れ、
その事に抗議すべく五千の兵を率いて上洛する計画を練っていた。
まさにその矢先の死だったわけです。
正直、ここまでくると胡散臭いw
「誰かが」手を下したンだろってのが当然、頭に浮かびますw
まぁひどい言い方をすると、
将軍就任ですら意のままにしようとした斉彬。ってことに、なりますよね(^▽^;
で、このことは久光を通じて家茂派である紀州徳川家へと伝わる。
また紀州ですよw
結構怖いですよね、紀州(苦笑)
斉彬は(あくまでも)久光ではなく、
久光の子、忠義に家督を譲ります。
しかし斉彬が死に、斉興も没すると、
「藩主の実父」として絶大な力を持ったのがこの久光というワケ☆
久光は「新興勢力」である若手従業員達が嫌いでしたからw
長いこと確執があったと言われています(^▽^;
この「寺田屋騒動」もその一つだったのではないかと思うわけです☆
話は長くなりますがw
ここに出てくる田中某という人物、
実はかなり立派な人物で(^▽^;
明治帝を養育した人物ですw
田中河内介。
但馬国、出石の医者の息子として生まれたこの男は、
儒学者井上静軒に師事した後、上京して私塾を開催。
1840年、中山忠能に見出されて彼の部下、田中某(田中近江介綏長)の養子となり、
従六位に叙されました。
実質的家宰として中山家を取り仕切り、中山忠光、慶子兄妹を養育。
慶子が典侍として後宮に出仕。時の帝の子を身ごもると、
宮中に戻るまでの4年をなんとこの田中が養育したといいます。
祐宮(明治帝)が宮中に戻ると、田中は中山家を辞して隠居。
しかしこれには裏があって、中山家の密偵として市中に潜伏したとも言われています。
忠能は公武合体と称し、孝明帝の妹宮、親子を人質として差し出す一方、
返す刀で別の方法を模索していのでした。
幕府の詮議が厳しくなると田中河内介は大坂に出ます。
薩摩藩との関わりはこの頃からあったと言われ、
柴山愛次郎、橋口壮介らと共に義挙を企て(天誅組の変)、島津久光により捕縛されました。
名門(?)中山家の密偵。
しかし(表面上)一介の素浪人である彼に引き取り手はありません。
仕方なく(?)薩摩への護送中、
田中の一子、瑳磨介と共に後ろ手に縄を打たれ、猿轡を噛まされたまま、
一刀両断に斬って海に捨てられたと言われています。
・・・・・・・・・・まぁせっかくなので寺田屋「事件」の方も(^▽^;

坂本龍馬はこの部屋に泊まっていたと言われています。
・・・・窓から見える風景がイマイチ現代風ですw
この廊下を伝って逃げたのでしょうか?

「刀傷」は皆が触ったのかつるつるですw
この一年後--------、
坂本龍馬は盟友、中岡慎太郎と共に、
京、近江屋で命を落とします。
ダブルスタンダードと二重スパイ。
そのどちらも、坂本龍馬にとっての「真実」でした。
彼を「英雄」に仕立て上げた人物。それこそが、
「幕末」という日本の歴史を作り上げた男、ということになります。
彼の名が明治以後、初めて登場するのは1904年。
明治も37年が過ぎた昭憲皇太后の「夢」の中でした。
田中光顕の「言葉」がなければ・・・・・・・・、
あるいは司馬遼太郎氏が「竜馬がゆく」を書くことも、なかったのもしれません。
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