5-18 大隈重信 - 2019.04.21 Sun
まずいことになった。と、大隈重信は思った。
前回よりも更に悪い。
あの頃、自らを「志士」と名乗る浪人が集まり、
ゆすりたかりを繰り返し、京の町を蹂躙した。
何が「志し」を持った「士」だ。
そんなものはどこにもない。
彼らの産んだ「造語」に過ぎなかった。
しかしその「種子」を巻いたのは、自らの手は汚さず周囲を動かす公家連中である。
食いついたのは身分制度が仇となり、土を耕すことも出来ず藩主に仕えることも出来ない浪人達。
彼らはだんびらを振り回すしか能がなく、挟持だけは一人前で、
少ない議席を争って足を引っ張り合う今日の一回生議員達に似ていた。
戊辰戦争の後、功労金を巡って対立したのは記憶に新しい。
それは上も下も関係なく、国中すべてのあらゆる人種が(大小の差はあれど)金を巡って争った。
この苦い経験から再びこのような内乱に陥らぬよう細心の注意を払ったというのに・・・・。
大隈は再び頭を抱えた。
大政奉還の後、版籍奉還と廃藩置県。
何より家禄奉還制度と金禄公債発行条例により、
武士の生活はますます困窮した。
いち早く立ち上がったのはやはり薩摩で、
刀を鍬に持ち替え、開墾を促し、私塾を作って人々に仕事を斡旋した。
それが祟ってこの始末である。
前回よりも更に悪い。
あの頃、自らを「志士」と名乗る浪人が集まり、
ゆすりたかりを繰り返し、京の町を蹂躙した。
何が「志し」を持った「士」だ。
そんなものはどこにもない。
彼らの産んだ「造語」に過ぎなかった。
しかしその「種子」を巻いたのは、自らの手は汚さず周囲を動かす公家連中である。
食いついたのは身分制度が仇となり、土を耕すことも出来ず藩主に仕えることも出来ない浪人達。
彼らはだんびらを振り回すしか能がなく、挟持だけは一人前で、
少ない議席を争って足を引っ張り合う今日の一回生議員達に似ていた。
戊辰戦争の後、功労金を巡って対立したのは記憶に新しい。
それは上も下も関係なく、国中すべてのあらゆる人種が(大小の差はあれど)金を巡って争った。
この苦い経験から再びこのような内乱に陥らぬよう細心の注意を払ったというのに・・・・。
大隈は再び頭を抱えた。
大政奉還の後、版籍奉還と廃藩置県。
何より家禄奉還制度と金禄公債発行条例により、
武士の生活はますます困窮した。
いち早く立ち上がったのはやはり薩摩で、
刀を鍬に持ち替え、開墾を促し、私塾を作って人々に仕事を斡旋した。
それが祟ってこの始末である。
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5-17 夭折 - 2019.04.19 Fri
神格化が進んでいる現在の感覚では、想像することさえ難しいとは思うが、
1878年のこの頃、明治帝はまだ27歳(満年齢で26歳)の青年である。
しかも一新はこのわずか十年ほど前、
それまで御簾の中で女官達とままごと遊びをしていればよかった少年が、
いきなり陽の当たる場所に引き出されてしまったのだ。
気脈を通じた公家連中と引き剥がされ、
京の町を追われるようにして江戸へと追いやってきた。
周囲は無骨な武士ばかり。
見知った女官達はすべて京へと打ち捨てられ、
新たな女官達は何処の誰とも分からぬ者ばかり。
そして誰の息がかかっているともしれないのである。
明治帝の恐怖が、理解出来るだろうか。
否、誰も理解しようとしなかったに違いない。
関白、二条斉敬の追い落としに成功した一条忠香は、
娘、明子を柳沢保申の正室に。妹の美子をを皇后とすることに成功した。
明子はあの有名な「和宮と呼ばれる写真」の、被写体と目される人物である。
他にも三条実美の妹、徳川慶喜の妻を養女として迎え、
権勢を欲しいままにしたはずだというのに、その詳細はほとんど語られていない。
忠香の妻は伏見宮邦家親王第二王女、順子。
第二の帝と呼ばれる家柄であった。
1878年のこの頃、明治帝はまだ27歳(満年齢で26歳)の青年である。
しかも一新はこのわずか十年ほど前、
それまで御簾の中で女官達とままごと遊びをしていればよかった少年が、
いきなり陽の当たる場所に引き出されてしまったのだ。
気脈を通じた公家連中と引き剥がされ、
京の町を追われるようにして江戸へと追いやってきた。
周囲は無骨な武士ばかり。
見知った女官達はすべて京へと打ち捨てられ、
新たな女官達は何処の誰とも分からぬ者ばかり。
そして誰の息がかかっているともしれないのである。
明治帝の恐怖が、理解出来るだろうか。
否、誰も理解しようとしなかったに違いない。
関白、二条斉敬の追い落としに成功した一条忠香は、
娘、明子を柳沢保申の正室に。妹の美子をを皇后とすることに成功した。
明子はあの有名な「和宮と呼ばれる写真」の、被写体と目される人物である。
他にも三条実美の妹、徳川慶喜の妻を養女として迎え、
権勢を欲しいままにしたはずだというのに、その詳細はほとんど語られていない。
忠香の妻は伏見宮邦家親王第二王女、順子。
第二の帝と呼ばれる家柄であった。
5-16 不惑の烈情 - 2019.04.17 Wed
藤田はその日、まんじりとも出来なかった。
遠くで時計が秒針を刻む音がする。
見慣れぬ天井の染みが時に揺れ、時に消えて藤田を揺さぶった。
夜明けが近い。
斗南の空気が一段と冷え込んだ。
藤田は腕の中に眠るサチの肩に布団をかける。
小さく声をあげ、肩を丸めるサチの仕草に例えようもない烈情が身を貫いた。
遠くで時計が秒針を刻む音がする。
見慣れぬ天井の染みが時に揺れ、時に消えて藤田を揺さぶった。
夜明けが近い。
斗南の空気が一段と冷え込んだ。
藤田は腕の中に眠るサチの肩に布団をかける。
小さく声をあげ、肩を丸めるサチの仕草に例えようもない烈情が身を貫いた。
5-15 壮年の恋 - 2019.04.12 Fri
倉澤平治右衛門の屋敷はそこから幾らか歩いた場所にあった。
二町ほどもあっただろうか? 陽が傾き初めている。
屋敷というよりも役所のようで、倉澤という男は忙しいのかここに詰めっきりのようである。
12人からいる大所帯で、声をかけると倉澤に取り次いでくれた。
斗南での苦労が忍ばれる、土気色をした顔は頬がごっそりとこけ、
白髪が髭と繋がり、つららのように伸びていた。
仕事を離れると人の良い好々爺なのか、
自宅に招いているのだろう多くの若者達に二言三言伝えると、
奥の間に藤田を誘った。
二町ほどもあっただろうか? 陽が傾き初めている。
屋敷というよりも役所のようで、倉澤という男は忙しいのかここに詰めっきりのようである。
12人からいる大所帯で、声をかけると倉澤に取り次いでくれた。
斗南での苦労が忍ばれる、土気色をした顔は頬がごっそりとこけ、
白髪が髭と繋がり、つららのように伸びていた。
仕事を離れると人の良い好々爺なのか、
自宅に招いているのだろう多くの若者達に二言三言伝えると、
奥の間に藤田を誘った。
5-14 斗南の離縁状 - 2019.04.10 Wed
一昔前であれば、人の足で一月はかかろうかという道のりも、
今では船で数日の距離である。
高木盛之輔の用意した船に乗って、斗南へ足を踏み入れたのは文月に入った頃であった。
まず八戸の港に降り立った。
1664年。八戸藩の誕生と共に鮫浦と呼ばれ、漁港として名をはせた場所である。
会津は元南部藩領の北部、三戸郡及び二戸郡内三万石を与えられたとあるが、
肥沃な三本木原は七戸藩へ、この漁港は八戸藩に与えられ、実質七千石にも満たなかった。
斗南藩は北は大間を先端として野辺まで、
泊や尾鮫から三本木まで七戸藩領で、その下から田子や金田一までが斗南領とし、
意図的に分断されたのである。
会津藩四千余、その家族を含め1万7千人が移住したが、
寒さに飢え、貧しい暮らしを病魔が遅い、多くの老人子供が犠牲となった。
一家全員が死亡、家系が耐えた家も珍しくなかった。
今では船で数日の距離である。
高木盛之輔の用意した船に乗って、斗南へ足を踏み入れたのは文月に入った頃であった。
まず八戸の港に降り立った。
1664年。八戸藩の誕生と共に鮫浦と呼ばれ、漁港として名をはせた場所である。
会津は元南部藩領の北部、三戸郡及び二戸郡内三万石を与えられたとあるが、
肥沃な三本木原は七戸藩へ、この漁港は八戸藩に与えられ、実質七千石にも満たなかった。
斗南藩は北は大間を先端として野辺まで、
泊や尾鮫から三本木まで七戸藩領で、その下から田子や金田一までが斗南領とし、
意図的に分断されたのである。
会津藩四千余、その家族を含め1万7千人が移住したが、
寒さに飢え、貧しい暮らしを病魔が遅い、多くの老人子供が犠牲となった。
一家全員が死亡、家系が耐えた家も珍しくなかった。